下新庄~吹田で線路切り替え 神崎川橋梁141年の歴史に幕


明治時代に作られた現・阪急千里線の神崎川橋梁が11月23日、役目を終えました。十三駅高架化工事に伴う鉄橋の架け替えによるもので、最後まで残されていた下り線が新線に切り替えられることとなりました。


ツイート:ほーや様

片方の線路が切り替わってからもう片方も新しい鉄橋に移行してしまうのはいつだろうと気になっていましたが、とうとうこの日が来てしまったようです。というわけで最終日、様子を見に行ってきました。

切り替え前、23日の様子。切り替えにより直線から曲線になる部分の線路内にはバラストが袋に詰められていました。

夜の雨がしとしとと役目を終える線路を濡らします。

切り替えられる線路の近くには工事資材が置いてありました。この袋は線路に敷くバラストのようです。

切り替え区間内に位置する下新庄踏切です。切り替え用の新線は準備済みでした。手前の真っ直ぐな線路が役割を果たすのもこの日が最後です。

下新庄駅を出発した電車がゆっくりと走り去っていきます。


神崎川橋梁に向かって歩いて行きましょう。

暗くてうまく撮れていませんが、こちらが役目を終える神崎川橋梁です。建設されたのは1876年(明治9年)、官営鉄道(国鉄)東海道線の一部として作られました。その後1913年に一旦廃止され、1921年の北大阪電気鉄道・淡路~豊津開業の際に復活しています。北大阪きゅうこ・・・違った、北大阪電気鉄道はその後京阪電鉄が買収、戦時中に京阪と阪急は合併し戦後分離しましたがその際にこの区間は阪急電鉄の路線となり、今に至ります。鉄橋そのものは掛け替えられているようですが、橋脚の一部に当時の建造物が残っています。

しかしながら淡路駅立体高架化工事に伴い下新庄駅や周辺線路も高架化が決定、神崎川橋梁は撤去されることになりました。今後は隣に掛けられた仮神崎川橋梁に一旦切り替えられた後、神崎川橋梁跡地により高い鉄橋を建設し、高架化した下新庄駅につなげるとみられます。

切り替え区間北端の支線神崎川北踏切も来てみました。

ショベルカーも線路の上で待機中。すぐ横を列車が通っていきます。

切り替え区間終端部にもバラストの袋が積み上げられていました。


切り替え翌日

下新庄踏切の様子。下新庄駅からのカーブが終わったあたりで線路が切断されていて、吹田寄りには侵入できないように黄色い棒が置かれていました。本線から分断された線路は最後の輝きを保っていました。

神崎川橋梁。鉄橋に入るところには柵が設けられていた以外は大きな変化はありませんでした。

支線神崎川北踏切にも侵入防止の木の棒が置いてありました。信号機はまだそのままの位置なので、入れない線路に向かって現示しているかのような不思議な光景でした。

新旧二本の下り線が並びます。


参考文献:

  • Wikipedia
  • 轍のあった道「東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線)」

ツイート:ほーや様 厚くお礼申し上げます。


続き:


更新日:2018年5月6日

meronking

「meronが地下鉄を追うブログ」「meronがモノレールを追うブログ」のMeronkingです。北大阪急行、大阪モノレールを中心に、大阪市営地下鉄、阪急バスなどについても書くかもです。

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